AOD-9604AOD-9604
成長ホルモンの「脂肪分解だけ」を取り出そうとして、ヒトで再現しなかった

結論(3行)
AOD-9604 とは、ヒト成長ホルモン(hGH)のC末端側アミノ酸176〜191に相当する配列をもとに設計された合成ペプチドである。
「痩せ系」に分類されて語られるが、GLP-1 受容体作動薬ではなく、セマグルチドやチルゼパチドとは作用機序も薬理学的な系統もまったく別である。
動物実験では脂肪分解の促進が報告されたものの、ヒトを対象とした第II相試験で主要評価項目を達成できず、2007年に抗肥満薬としての開発は中止された。
AOD-9604 とは
AOD-9604(AOD9604、エーオーディー9604)は、1990年代にオーストラリアのモナシュ大学系企業 Metabolic Pharmaceuticals が開発した合成ペプチドです。名称の AOD は Anti-Obesity Drug(抗肥満薬)の略で、開発コードがそのまま通称になりました。
出発点は仮説でした。hGH には成長促進作用と脂肪分解作用の両方があるが、脂肪分解に関わるのは分子の一部分ではないか、という発想です。実際、hGH のC末端側フラグメント(アミノ酸177-191)を投与した動物で体重増加と脂肪組織量の減少が報告されており、そこにN末端のチロシン残基を付けたのが AOD-9604 です。
狙いは明快でした。成長ホルモンそのものを投与すると IGF-1 が上昇し、耐糖能の悪化といった問題が出る。だが「脂肪を落とす部分」だけを切り出せれば、副作用なしに脂肪分解だけが得られるはずだ——という設計思想です。Heffernan らは肥満マウスとβ3アドレナリン受容体ノックアウトマウスを使った検討から、このフラグメントの脂肪代謝作用が通常の hGH 受容体経路を必ずしも必要としないことを示唆しました。創薬としてきれいな物語です。問題はこの先で起きました。
研究で分かっていること
| 段階 | 内容 | 主な報告 |
|---|---|---|
| 動物(マウス) | hGH 177-191 の慢性投与で累積体重増加と脂肪組織量が減少したと報告 | Ng ら 1990年代 |
| 動物(マウス) | 肥満マウスおよびβ3-ARノックアウトマウスで脂肪代謝への影響。hGH 受容体非依存の経路を示唆 | Heffernan ら Endocrinology 2001 |
| ヒト(第I相) | 経口投与での安全性・忍容性が検討され、重篤な有害事象は報告されなかったとされる | Stier ら 2013(報告論文) |
| ヒト(第IIa相) | 小規模な検討で、プラセボに比べわずかな体重減少が報告された | 企業発表ベース |
| ヒト(第IIb相) | より大規模な用量比較試験で、いずれの用量もプラセボに対して有意な体重減少を示せなかった | 企業発表(2007年、開発中止) |
| ヒト(第III相) | 実施されていない | ― |
この表で決定的なのは第IIa相と第IIb相の落差です。小さい試験で見えた差が、検出力を確保した大きい試験で消えた。創薬ではよくあるパターンで、「よくあるからこそ大きい試験をやる」わけです。AOD-9604 は、その検定に落ちた物質です。
なお、hGH 176-191(いわゆる「HGHフラグメント」)と AOD-9604 は英語圏でしばしば混同されますが、AOD-9604 は N 末端にチロシンを付加した誘導体で、厳密には同一物ではありません。
分かっていないこと
- ヒトで臨床的に意味のある体脂肪減少が起きるのか。第IIb相の結果はこれを支持していません
- 動物で示唆された「hGH 受容体非依存の脂肪分解経路」がヒトで同じように働くのか
- 長期投与時の安全性。開発が中止されたため、長期データそのものが存在しません
日本と米国の承認状況
| 日本 | 米国 | |
|---|---|---|
| 医薬品としての承認 | なし(未承認) | なし(未承認) |
| 調剤(compounding) | 制度自体が異なり、該当しない | 2023年9月に 503A 調剤用バルク原薬の Category 2 へ分類。2024年9月に指名撤回により同区分から削除され、2024年12月4日の薬局調剤諮問委員会(PCAC)は 503A 収載を 0対12 で否決 |
| 救済制度 | 未承認のため、健康被害が生じても医薬品副作用被害救済制度の対象外 | ― |
| ドーピング | 世界アンチ・ドーピング機構(WADA)は AOD-9604 を「いずれの規制当局にも承認されていない薬理学的物質」として禁止表 S0 に該当すると声明(2013年) | 同左 |
米国の PCAC 投票が 0対12 だった点は、数字として重いと思います。12人の委員が全員、収載を支持しなかった。委員会が挙げた理由は「レビュー対象の用途について、有効性と安全性を支持する説得力のあるデータがない」というものでした。
既知のリスク・副作用
第I相レベルでは重篤な有害事象は報告されなかったとされますが、これは「短期の投与で明らかな害が出なかった」以上の意味を持ちません。長期の安全性データは、開発が止まった時点で存在しなくなりました。理論上の懸念としては、外来ペプチドに対する免疫原性、そして未承認品に共通する品質の問題があります。純度・不純物・エンドトキシンについて第三者の保証がありません。
日本では未承認であり、個人輸入した製品で健康被害が生じても、医薬品副作用被害救済制度の対象外です。
海外で話題になっている理由(ペプチ堂管理人の読み)
僕が AOD-9604 について一番言いたいのは、これが「痩せ系」の棚に GLP-1 と並べて置かれていること自体がおかしい、という点です。セマグルチドやチルゼパチドは GLP-1 受容体を介して食欲と胃排出を変える薬で、AOD-9604 は成長ホルモンの断片です。共通点は「痩せると言われている」ことだけで、機序も、エビデンスの厚みも、承認状況も、まったく違います。当サイトでもカテゴリ上は痩せ系に入れていますが、これは検索する人の頭の中の分類に合わせているだけで、薬理学的な同族という意味ではありません。
では、なぜ海外で語られ続けるのか。一つは、2013年のオーストラリアン・フットボールリーグの薬物問題(エッセンドンの一件)で AOD-9604 が世間に知られてしまったこと。禁止物質かどうかで揉めた末に WADA が「S0 に該当する」と声明を出した経緯があり、皮肉なことにスキャンダルが知名度を作りました。もう一つは、「hGH の脂肪分解部分だけ」というコピーが、成長ホルモンに憧れつつ副作用を恐れる層に完璧に刺さることです。物語として、あまりに出来がいい。
ただ、僕の評価は単純です。これは仮説として美しく、動物で機能し、ヒトで再現しなかった物質です。第IIb相で外したというのは「まだ分かっていない」ではなく「調べた結果、示せなかった」という状態で、BPC-157 や MOTS-c のような「データの空白」とは種類が違います。空白は埋まる可能性がありますが、否定的な結果は覆すのに新しい強い証拠が要ります。2026年現在、その証拠は出ていません。
よくある質問
Q. AOD-9604 とは何ですか。 A. ヒト成長ホルモンのC末端フラグメント(176-191相当)をもとに設計された合成ペプチドです。抗肥満薬として開発され、ヒト試験で主要評価項目を達成できず2007年に開発中止となりました。
Q. GLP-1 系の薬と同じですか。 A. 違います。GLP-1 受容体には作用しません。「痩せ系」という括りで並べて語られることが多いだけで、機序も承認状況も別物です。
Q. 効果はあるのですか。 A. 動物では脂肪代謝への影響が報告されています。ヒトでは、より大規模な第II相試験でプラセボに対する有意な体重減少を示せませんでした。
Q. 副作用はありますか。 A. 短期試験で重篤な有害事象は報告されなかったとされますが、長期安全性のデータはありません。「報告がない」は「安全」ではありません。
Q. 日本で使うのは違法ですか。 A. 未承認医薬品であり、国内で医薬品として販売・広告することはできません。スポーツ競技者の場合、WADA の禁止表 S0 に該当します。
関連する成分
- セマグルチド — 同じ「痩せ系」だが、機序もエビデンスも承認状況もまったく異なる
- テサモレリン — 成長ホルモン軸に働きかけ、米国で承認された数少ない例
- イパモレリン / CJC-1295 — 同じ2024年12月の PCAC で審議され、同様に否決された
- BPC-157 — ヒトデータが「空白」の例。AOD-9604 の「否定的結果」と対比すると分かりやすい
一次情報
- Heffernan MA, Thorburn AW, Fam B, et al. 肥満マウスおよびβ3-アドレナリン受容体ノックアウトマウスにおける hGH および AOD9604 の脂質代謝への影響. Endocrinology. 2001.
- Ng FM, Sun J, Sharma L, et al. ヒト成長ホルモンの合成脂肪分解ドメイン(AOD9604)の代謝研究. Hormone Research. 2000.
- Stier H, Vos E, Kenley D. ヘキサデカペプチド AOD9604 のヒトにおける安全性と忍容性. 2013.
- WADA. Statement on substance AOD-9604(2013年).
- FDA. Bulk Drug Substances Nominated for Use in Compounding Under Section 503A — Category 2 list(2023年追加、2024年9月削除).
- FDA. Pharmacy Compounding Advisory Committee(PCAC)2024年12月4日会合 議事録・投票結果.
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